Australian Embassy Tokyo
在日オーストラリア大使館

ファッションに見るオーストラリアのアイデンティティ

パワーハウス・ミュージアム キュレーターのグリニス・ジョーンズ氏が、「ファッションに見るオーストラリアのアイデンティティ」と題して、2016年6月6日にオーストラリア大使館で講演しました。ビーチファッションやダイアナ妃愛用のセーター、オーストラリア在住のファッションデザイナー・五十川明氏について触れています。以下、講演全文です。

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ファッションには、社会や経済、技術面での変化が反映されています。ファッションは私たちの想像力だけでなく、私たちが持つ脆弱さを否応なく映し出します。また、個人や集団の状況や嗜好、アイデンティティを表すのにも使われます。この意味で、国がこうありたいと思う姿が、時代と共にどう変化してきたのか、ファッションを通じて理解することができます。

今回のプレゼンテーションでは、主にパワーハウス・ミュージアムの豊富なコレクションに基づき、1901年の連邦制導入から、現在に至るオーストラリアのファッションや衣装の歴史的流れを紹介します。

イギリスは1901年1月1日、それまで6つあった植民地を、オーストラリア連邦として認める法案を可決しました。これにより、オーストラリアは独立した主権国家となりました。

オーストラリア国民は19世紀後半から20世紀前半にかけて、連邦制に非常に高い関心を持っていました。このドレスには、当時のこうした風潮が反映されています。マーガレット・キショルム氏は、連邦制を祝うダンスパーティのためにこの服を作り、着用しました。セピア色の写真には、当時の様子が写っています。このドレスはボディスがユニオンジャックで構成され、“Federation(連邦)”という言葉が飾り帯につけられています。また、スカートに(非公式の)紋章が描かれるなど、連邦政府のシンボルが多く取り入れられています。紋章の下に“Advance Australia”とありますが、この言葉は少なくとも1830年代から、オーストラリアのPRに使われていました。

連邦制が採用される数年前から、オーストラリアでは、紋章用の様々なデザインが提案されていました。こうして発表された多くのデザインは、正式に認められていないにも関わらず、世の中に広まる結果となりました。ここにある例では、盾の上に朝日が描かれ、その盾がカンガルーとエミューに挟まれています。この四分円には洋式帆船、羊の毛、麦束とクロスしている鉱業用具が描かれています。(Collection: Museum of Applied Arts and Sciences, Sydney.)

ビーチファッション

20世紀前半のオーストラリアでは、男女が海で一緒に遊ぶことも、昼間泳ぐことも禁止されており、ビーチでの服装も法律で厳しく制限されていました。このため、ビーチを満喫するには程遠い状況にありました。しかし1920−30年代、これらは大きく緩和されました。運動や日光浴は健康に良いという考え方から海水浴が人気となり、従来の全身をおおう水着は、ファショナブルなデザインへと大変身を遂げました。初めて、日焼けは魅力的なものと受け取られるようになりました。(Collection: Museum of Applied Arts and Sciences, Sydney. Photo: Marinco Kojdanovski.)

バーレイ(Berlei)

衣服の中でも、下着の存在は不可欠です。着心地の良さや清潔さも大事ですが、下着は女性の身体を美しく見せる役割を、同時に果たしてきました。バーレイ社(Berlei)は世界的に成功したオーストラリア企業であり、ブラジャーやコルセット、医療用サポーターやガードルの生産にあたってきました。

Berlei 社は女性の体形にぴったり合う下着の生産に、大きな役割を果たしただけではありません。1926年、オーストラリア人女性6000人を対象に、世界初の身体測定を実施しました。Berlei 社のビジネス・マーケティング手法は、当時としては画期的でした。女性マネジャーを登用したり、マタニティブラジャー・デザインの際、医療やデザインの専門家とのコラボレーションを実行したりしました。

サロンの隆盛

オーストラリアでは入植当初から、フランスのファッションが人気でしたが、20世紀に入ってからも、この傾向は変わりませんでした。

フランスはオートクチュールの発祥地として、当時からファッションの中心であると見なされていました。オーストラリアの量販市場では、プレタポルテにおいて、フランスのファッションをアレンジしたものがよく見られました。

フランスの高級婦人服メーカーも、オーストラリアにライセンスを供与しました。これにより、オーストラリアのデザイナーが、フランスの模様又はキャラコ布を利用して、国内向けの生産を行うようになりました。

第二次世界大戦直後、オーストラリアのファッション・パレードで、フランスのクチュールが披露され、国内女性の間で人気が高まりました。1948年には、クリスチャン・ディオールの新作がDavid Jonesのパレードで発表され、その多くは、パリ以外での世界初公開となりました。ディオールから見れば、オーストラリアは、戦争の影響が少ない有望な市場でした。

やがてオーストラリアでも、デザイナーがオーストラリア流のサロンを開くようになりました。そして裕福な上流婦人たちが、ワードローブをオーダーメイドするようになりました。富裕層を対象とした、カスタムメイドです。ロシアからの移民であったゲルメイン・ロシェル氏、パリへの憧憬が深いメルボルンのブティックLe Louvreのリリアン・ホワイトマン氏などが、当時デザイナーとして活躍していました。ホワイトマン氏の場合はフランスを模倣するだけでなく、実際にフランスから洋服を輸入していました。

デザイナーのベリル・ジェンツ氏も、高級サロンから起業しました。彼女はフランス人の高級ドレスメーカーの下、シドニーで学びましたが、多くのオーストラリア人デザイナーと異なり、フランスの真似ではない独自性を出そうとしました。この点から、オーストラリアにおける高級婦人服縫製の第一人者と見なされています。 

ジェンツ氏は舞台や映画にあるような、魅力的なドレスがお気に入りでした。16歳で初めて店をオープンし、ハリウッド映画で見た衣装をイメージして、デザインを考案しました。1950年代には、ベティ・ストーマン女史を含め、シドニーの富裕な女性社交家から、最高級カスタムメイド・デザインを任せられるようになりました。

1952年、ストーマン女史が聖マリア大聖堂でボブ・マックルネーニー氏と結婚した際、ウェディングドレスのデザインを担当したのも彼女でした。ぺプラム全体にハンドメイドなシルクサテンのバラが溢れる、精巧な作りのウェディングドレスでした。(Photography by John Hearder. Collection: Museum of Applied Arts and Sciences, Sydney.)

ドライザ・ボーン(Driza-Bone)

オーストラリアの日常を代表するアイテムの中には、本来アウトバック用であったのに、街中で見ても何の違和感も感じさせないものがあります。その一例として、こちらのドライザ・ボーン(Driza-Bone)をご紹介します。

Driza-Boneの由来は、1800年代にさかのぼります。エミリウス・ル・ロイという若いイギリス移民が、破れた綿製の帆を亜麻仁油で防水し、ウインドジャマー(windjammer)と呼ばれる大型船船員のためのレインコートを作り上げました。

鉄製の大型船windjammerは、イギリス、ヨーロッパとオーストラリアの間を往復していました。船員は海深く濡れた状態で作業を行う必要があったことから、考案されました。

ル・ロイ氏はオーストラリアに定住し、マンリーの裏小屋でコートの製作を始めました。このコートは、農村労働者の間で人気が高まりました。また馬の背の形を考慮し、馬の鞍が雨に濡れないよう、後方部が扇形になるなど、ニーズに合わせた改良がなされました。

オーストラリアの山奥は、乾燥した過酷な環境です。こうした中で、コートが硬くなったりひび割れしないためのオイリング剤が新しく開発されました。この結果、耐久性の高いオーストラリア特有のアイテムが誕生しました。

この写真には、ニュー・サウス・ウェールズ州クーナンブル(Coonamble)付近ムタッマ駅(Muttama)で、プロパティー・マネジャーを務めていたジョン・ジョイナー氏が写っています。彼は1950年代前半、Driza-Boneを購入、1990年代まで仕事と牧畜業の両方で毎日これを着続けました。彼の話では、牛に襲われる直前、このコートを牛の頭にかぶせたおかげで、彼の息子ともども一命を取りとめたそうです。

Speedo

オーストラリア国民の誰もが誇りに思う水着Speedoは、現在もオーストラリアのスポーツ界と製造業界に重要な位置を占めています。1920年代の設立以来、優れた競技用水着の製造こそ同社の目標であり、現在は、Speedoの水着を使用するオリンピック金メダリストが最も多くなっています。

パワーハウス・ミュージアムには、1930年代から2012年のロンドンオリンピックまで、様々なSpeedoの水着が展示されています。こうしたコレクションから、水力抵抗を減らすための形や生地の革新的変化こそ、Speedoの成功の鍵であったことが分かります。(Collection: Museum of Applied Arts and Sciences, Sydney. Photo: Nitsa Yioupros.)

デザインに見るオーストラリア性

オーストラリアのファッション・デザイナーは、さまざまな文化的影響を受けています。かつてはイギリス、パリやハリウッド映画のデザインの真似こそが主流を占めていました。

しかし1970年代から、オーストラリアの文化的アイデンティティを強く主張するデザイナーが、登場し始めました。彼らはオーストラリア固有の動植物や風景、文化的象徴やライフスタイルを描くことで、喜びの表現や政治的メッセージを強く打ち出しました。

オーストラリアの独自性を表現して成功を収めた最初のデザイナーは、ジェニー・キー氏とリンダ・ジャクソン氏です。二人は1973年に知り合い、シドニーにあるフラミンゴ・パーク(Flamingo Park)と名づけられたドレスサロンで、十年間共に販売に従事しました。その後“Jenny Kee”“Bush Couture”のブランドをそれぞれ立ち上げました。

二人のデザインは独自であり、時代を追うものではありません。何よりもファッションの歴史や伝統など、オーストラリアの荒野特有の美から発想を得ています。

ダイアナ妃愛用のセーター

キー氏の作品は、カンガルーやコアラ、アカシア、ワラタなど、オーストラリア固有のデザインを取り入れた、色とりどりのニットウェアや生地で知られています。1981年イギリスのチャールズ皇太子がダイアナ妃と結婚した際、当時ニュー・サウス・ウェールズ州首相であったネヴィル・ラン氏の令嬢は、キー氏のデザインによる、コアラとカンガルーが描かれたペアルックのセーターをプレゼントに贈りました。当時、ダイアナ妃は鮮やかな柄のセーターがお気に入りで、翌年、ポロの試合にコアラのセーターを着た姿で登場しました。

オパールはオーストラリアの宝石として有名ですが、キー氏のデザインの中で特に人気が高いのが“Black Opal”と呼ばれる生地です。カール・ラガーフェルド氏は1983年、シャネルでの初コレクションに採用するなど、この生地から強い影響を受けました。(Collection: Museum of Applied Arts and Sciences, Sydney. Photo: Marinco Kojdanovski.)

リンダ・ジャクソン

オーストラリア国民の心象風景のひとつに、ブッシュファイヤー(山火事)が挙げられます。破壊的でありながら、林の再生につながる火の存在は、リンダ・ジャクソン氏の作品において、死と再生というテーマを構成しています。

ジャクソン氏によるアンサンブルの柄には、赤い残火を背景に、焦げた樹木が立ち並ぶ山火事の跡の様子が描かれています。

オーストラリア固有の花の中には、世界で珍しいものが多くあります。ジョクソン氏は花柄デザインの着想を、鮮やかな色と独自の形状を持つこうした植物から得ています。

“Sturt's Desert Pea”

ジャクソン氏のデザインによる、Sturt’s Desert Peaと名付けられたドレスは、花びらを表す大きな一枚の楕円と、黒い突起を示す飾り帯で構成されています。

シドニーのゲイ・アンド・レズビアン・マルディ・グラ

シドニーのゲイ・アンド・レズビアン・マルディ・グラは、海外の観光客をオーストラリアに引きつける一大行事です。毎年このために、国内外から数千人が集まります。マルディ・グラのパレードやパーティは、ゲイ&レスビアンの芸術家やデザイナー、職人にとって大きなチャンスです。毎年、豪華さとユーモアで観客を喜ばせるコスチュームやポスター、イベントの数々が披露されます。 

Gingham Woman - ブレントン・ヒース・カー

デザイナー、兼パフォーマンス・アーティストであったブレントン・ヒース・カー氏は、自らデザインした衣装をまとい、様々なキャラクターで人前に現れました。中でも有名なのは “ギンガム・ウーマン(Gingham Woman”で、スリーズ・ボール(Sleaze Ball)と呼ばれるシドニーの有名なゲイ・アンド・レズビアン・パーティで、彼は全身をギンガムチェックに包んで登場しました。この衣装では彼の正体はわからず、ジェンダーやアイデンティティは全くもって不明でした。ギンガムというと、普通は1950年代の健康な女性のファッションが思い浮かびますが、ヒース・カー氏は少女というより、セクシーなバッドガールのイメージを前面に打ち出しました。

新星オーストラリア・デザイナーの登場

1990年代の不況は、オーストラリアのファッション業界を大きく変えました。関税の削減で輸入品の価格が大きく下がり、国内の繊維・アパレル業界が打撃を受け、独立系デザイナーやアート方面の活動が衰退しました。その一方で、1996年にシドニーでオーストラリア初のファッションウィークが、サイモン・ロック氏により開催されるなど、新しい枠組みが生まれました。ファッション業界でプロ意識が高まり、オーストラリアのデザイナーがグローバルな市場で活躍することを、ロック氏は望んでいました。

彼の発言は当時、行き過ぎたものと受け取られていたかもしれません。しかし実際には、ファッション業界は常に革新的なデザインを求めており、その特徴的なスタイルが世界で絶賛を浴びるような、新世代のデザイナーがこの十年間に登場してきました。

コレット・ディニガン

コレット・ディニガン氏は、オーストラリア・ファッション業界のパイオニアとみなされています。彼女が1990年代に立ち上げた国際的なブランドは、世界の一流店が仕入れています。フェミニンでセクシー、かつどこか懐かしい雰囲気を感じさせる彼女の服は、レースや装飾的なデザイン、生地の独自性が売り物です。着心地の良さや、女性を綺麗でセクシーな気持ちにしてくれる点こそ、ディニガン氏の成功の鍵といえます。

1990年、彼女はヴィンテージ風のランジェリー・コレクションで、自らのブランドを起こしました。やがて下着のデザインからアウターウェアへと展開し、ユニークなランジェリー風スタイルを確立させました。その後、プレタポルテの定義を決めるフランスの団体“Chambre Syndicale du Prêt-a-Porter des Couturiers et des Créateurs de Mode”により、オーストラリア人デザイナーとして始めて、パリコレにおけるプレタポルテ・ファッションショーの演出を依頼されました。

五十川明−シドニーを救ったドレス

五十川明氏は京都生まれで、ワーキングホリデービザで1986年にオーストラリアへ渡りました。青空や大自然に魅了され、“自由に満ちた、新鮮で若いオーストラリアの精神”が好きになり、そのまま残ることにしたそうです。五十川氏の創造性は、オーストラリアで花開きました。最初は日本の伝統的な影響が強かったものの、模様や柄など様々な工夫を取り入れ、実験的でユニークな作風を確立していきました。

東洋と西洋を融合させた独自のスタイルに関して、五十川氏は「オーストラリアの良い点は、文化の多様性です。私のデザインは“フュージョン料理”であり、私はただアジアとヨーロッパの食材を合わせているだけです。」と語っています。

ファッション・エディターのマリオン・ヒューム氏は、1999年のオーストラリアン・ファッション・ウィークショーの批評で、“五十川氏のワンピースはシドニーを救った”とまで書いています。このイベントには、海外からバイヤーやマスコミが数多く参加します。残念な出来の作品が多かった中、ユニークさに溢れた五十川氏のデザインは、海外から来るだけの価値あるもので、彼こそがオーストラリアの評価を支えたと、ヒューム氏は語っています。

トニ・マティチェブスキの登場

トニ・マティチェブスキ氏のデザインは、技術的な洗練にその特徴があります。彼が生み出す生地は、ファッションの歴史についての知識を反映しており、スポーツ用の軽いメッシュ生地との組み合わせにより、豪華で未来的な雰囲気が醸し出されています。

“Romance Was Born”

アンナ・プランケット氏とルーク・セイルス氏は、シドニー発のブランドを2005年に立ち上げて以来、遊び心や創造性、意外性に満ちたオリジナル作品を次々と発表しています。二人は季節ごとのデザインや生産・販売のほかにも、アートや舞台衣装、ギャラリー・インスタレーションの創作等、様々なプロジェクトにおける幅広い活躍で知られています。

プランケット氏とセイルス氏のもうひとつの特徴は、芸術家やミュージシャン、デザイナーとのコラボレーションです。この写真にある“Cooee Couture”と“Opal Romance”のコレクションは、両氏が長年交流を続けてきた友人で、オーストラリアのファッション業界のパイオニアでもあるリンダ・ジャクソン氏との共同作業です。展示作品からは三人の、オーストラリア独自の自然や文化に対する深い愛情が伺えます。

このクロッシェのワンピースは、プランケット氏とセイルス氏が“Romance was Born”というシドニー発ブランドのためにデザインしたものです。しかし、ケイト・ブランシェットが2009年9月、メルボルンの映画祭オープニングイベントで着た際、専門家やスポーツ紙による評価はいまひとつでした。

あるスポーツ紙はこの衣装を“ケイト・ブランケット”と呼び、“ドイリーやティーポットカバー、あるいはおばあさんのよう”と皮肉りました。一方、ファッション・コメンテーターのメリッサ・ホイヤー氏はもう少し穏やかな口調で、このように書いています。“ケイト・ブランシェットは、ジョルジオ・アルマーニやジバンシィ、シャネル、アレクサンダー・マックイーンといったオートクチュールでベストドレッサーの評価を得ているが、アヴァンギャルドな独特のファッションを選択する人物としても有名である。今回、ローカルブランドに敬意を評し、支援したことは高く評価されるべきである。”

Di$count Universe

ナディア・ナプリチコブ氏とカミ・ジェームス氏はラグジュアリー業界を笑い飛ばそうと、2009年にブログを通じて、Di$count Universeというブランドを立ち上げました。二人はオーストラリアの既存のファッション業界に迎合したり、競争したりするつもりはありませんでした。彼女たちの作品には、パンクやフェティッシュ風70年代ロックなどの影響を受けた猥雑な表現や、過度の装飾性、派手なスパンコールが取り入れられています。彼女たちはブログ経由での販売により、ランウェイショーやバイヤー、仕入れ業者を不要な存在にしました。

オーストラリアのファッションとは、一体何なのでしょうか。最後になりますが、それはデザイナーひとりひとりが独自の方法で開拓する、無限の可能性を秘めた領域であるといえます。