
太平洋戦争下、日本とオーストラリアが戦ったという事実を今の若い日本人はほとんど知りません。当時、オーストラリアで反日感情が渦巻くなか日本を訪れ、豪日友好のために尽力したオーストラリア人のトニ・グリン神父。彼の知られざる物語を記録したドキュメンタリー映画『—豪日に架ける—愛の鉄道』(1999年)を世に送り出したのが千葉茂樹監督と妻でプロデューサーの好美さんです。マザー・テレサを追った代表作から映画制作を用いた教育手法「シネリテラシー」の普及活動まで、半世紀にわたって映画を通して人と人をつないできた千葉好美さんに、オーストラリアを題材にした映画を通して、次世代の人々に伝えたいことについて伺いました。
世界で初めてマザー・テレサのドキュメンタリーを撮影
——ドキュメンタリー映画『マザー・テレサとその世界』に代表される千葉茂樹監督と好美さんのこれまでの活動について教えてください。
夫の千葉茂樹は、大学生の頃に黒澤明監督の「生きる」(1952年公開)を観て衝撃を受け、映画監督を志しました。大映の東京撮影所で助監督を務めたあと、脚本家として出発し、新藤兼人さんたちが立ち上げた近代映画協会に参加しました。1974年の『愛の養子たち』で監督デビューしてからは、一貫してドキュメンタリーの道を歩んできました。私自身も近代映画協会で企画・製作に携わってきました。

私たちの代表作といえるのが、ドキュメンタリー映画『マザー・テレサとその世界』(1979年公開)です。マザーから特別に撮影許可をいただき、「世界最悪の居住地帯」とまで言われたコルカタのスラム街に入って、マザーとシスターたちの日々を記録しました。私はこの作品の企画・製作を担当しました。映画公開がマザー・テレサのノーベル平和賞受賞と重なり、この作品は大きな反響をいただきました。おかげさまで、毎日映画コンクール文化映画グランプリ、キネマ旬報の文化映画賞をはじめ、国内外でいくつもの賞をいただくことができました。
これまでの映画制作を振り返ると、キリスト教の背景を持つ題材を撮ることが多かったと思います。神と人、人と人との「和解」——その根っこにあるものを見つめてきた、という感覚があります。映画制作と並行して、夫は日本映画学校(現・日本映画大学)の校長を務め、後進の育成にも力を注いできました。
死の鉄道を「愛の鉄道」に変えようと呼びかけたトニ・グリン神父
——現在に至るオーストラリアとの関係構築のきっかけとなった映画『—豪日に架ける—愛の鉄道』(1999年)は、どのような内容なのでしょう?

これは、第2次世界大戦後の日本で、豪日友好のために尽力したオーストラリア人、トニ・グリン神父の生涯をテーマにしたドキュメンタリー映画です。若い世代の皆さんはほとんど知らないかもしれませんが、太平洋戦争の頃、映画『戦場にかける橋』で知られる泰緬鉄道の建設に多くの連合国軍捕虜が動員されました。ここで、たくさんのオーストラリア人兵士も捕虜となり、虐待を受けたことが記録に残っています。強制労働をさせられ、多くの仲間が命を落とす現場を見たオーストラリア人兵士たちは、強い反日感情を持ちながら終戦後に母国に戻ります。そんな状況の中で従軍司祭だったライオネル・マースデン神父が、「憎しみを愛に変えよう」と訴えます。「死の鉄道といわれた泰緬鉄道の代わりに『愛の鉄道』を敷いて、オーストラリアと日本をつなごう」と呼びかけたのです。神父ご自身も命からがら帰国された身でありながら、日本人を憎んではならないと呼びかけました。その志を若いトニ・グリン神父とポール・グリン神父の兄弟が引き継いで奈良を拠点に和解の活動を続け、戦後のオーストラリアから日本へ、物資の支援や人の交流が生まれていきました。映画はその知られざる運動を記録したものです。

この映画の制作は、1冊の本との偶然の出合いからはじまりました。1995年の夏、娘の留学先を探してシドニーを訪ねたとき、現地に住む聖パウロ女子修道会の日本人シスターから1冊の本をいただいたのです。タイトルは『長崎の歌』。長崎で被爆した医者で、熱心なカトリック信者だった永井隆博士について書かれた本でした。これを読んで、私たちは著者のポール・グリンという人物に興味を持ちました。彼は長い間、日本で宣教活動をしていたマリスト会の神父でした。
帰国後すぐに奈良のマリスト会本部に連絡を取り、来日されていたポール・グリン神父に東京でお会いしました。そこで、兄のトニ・グリン神父の活動について知ることになります。その後、私たちは奈良を訪れ、さまざまな関係者に話を聞きました。すると当時の奈良市長さんやお寺の住職さんが、熱心にトニ・グリン神父への敬愛を語ってくれました。その姿に、「この人たちのことを残さなければ」という思いがどんどん強くなり、自然と映画づくりに向かっていきました。この作品は、1998年ごろに撮影し、1999年に完成しています。
トニ・グリン神父は、奈良県を中心に、戦争未亡人や子どもたちへの援助を行いながら、オーストラリアのカウラ収容所跡での日本人捕虜の墓参、オーストラリア兵捕虜収容所があった新潟県直江津での慰霊、オーストラリアに残された日本兵の日本刀返還運動など、さまざまな活動を行いました。私たちは、オーストラリアと日本で100人以上の関係者を取材して、トニ・グリン神父の足跡を辿りました。元オーストラリア労働党の国会議員トム・ユーレンさんをはじめ、いまではもう聞くことのできない貴重な証言を記録に収めることができました。
完成後の2000年には、シドニー・オリンピックを記念して「サザンクロス日本映画祭2000」(豪日交流基金後援)を企画し、今村昌平監督のご協力のもと、約50人のツアーでリズモア、キャンベラ、シドニーの3都市を巡りました。このイベントでの『愛の鉄道』の上映がきっかけとなり、2002年から「豪日学生映画フォーラム」が始まります。当時、夫が勤めていた日本映画学校では「オーストラリア映画講座」なども行われ、オーストラリアの若い監督や学生が、日本映画学校の学生たちと世代を超えた交流をしていました。
——映画制作を通じて、忘れられないエピソードがあれば教えてください。
映画では、元国会議員のトム・ユーレンさんのインタビューを行っています。彼は泰緬鉄道の建設に従事した元捕虜で、虐待の現場を目にしてきました。インタビューでも「日本人をこの地上からすべて消してしまいたいと思った」という強烈な言葉を残しています。そんな彼のインタビューを編集する過程で、ポール・グリン神父が「この部分を使うべきだ」と言って、採用されたのが、以下のような言葉です。
「私は(当時のビルマから)日本に来て自分の考えが変わりました。私は1943年に泰緬鉄道の工事を終えると同時に今度は九州の佐賀関に連れて来られ、軍事工場で強制労働させられました。しかし、そこの工場長も一緒に働いていた日本人も韓国人もやさしかった。泰緬鉄道で会った日本人とは違ったのです。みんなで一緒に食事をして、大きな風呂に入りました。おかげで私は日本人に対するイメージが変わりました。悪いのはファシズムと軍国主義だったのです」

太平洋戦争の捕虜虐待の事実を知ると、当時のオーストラリア人の反日感情は当然のことだと思います。私たちは、このユーレンさんの言葉に本当に救われたし、オーストラリアと日本の関係をよい方法に向かわせるものだと思いました。小さな映画ですが、これを使って両国の友好関係をより強いものにできればと思っています。
映画づくりを通して、居場所を見つけるシネリテラシー教育
——2006年に豪日交流基金賞をご夫婦で受賞されました。受賞理由となったドキュメンタリー映画『シネリテラシー 映画を作る子供たち〜オーストラリアの挑戦〜』は、どのような内容だったのでしょうか。
「シネリテラシー」というのは、AFTRS(The Australian Film, Television and Radio School)の教員で映画研究者のジェーン・ミルスさんが提唱する映画を使った教育のことです。多民族社会のオーストラリアには、英語が得意でない移民の子どもたちが大勢います。映画づくりを通して、その子たちが学校で居場所を見つけられずにいるという課題を解いていこうという試みでした。

子どもたちは、演技、脚本、衣装、メイクなど、映画制作のさまざまな役割を担います。みんな何かしら得意なことがあって、自分の出番がある。完成した作品を地域の映画館で上映するときには、赤いカーペットが敷かれ、子どもたちがヒーローのように迎えられる——。人間には、役割が必要であることを痛感します。オーストラリアでは、幼稚園から高校まで公教育のなかに「シネリテラシー」が組み込まれています。この取り組みを記録したのが、『シネリテラシー 映画を作る子供たち〜オーストラリアの挑戦〜』です。オーストラリアとの友好を深め、映画を用いた教育を日本に紹介したことを評価いただき、2006年に夫婦で豪日交流基金賞をいただきました。
——その後、豪日交流基金の助成を受けて、さまざまな活動に取り組まれます。まず2008年の活動について聞かせてください。
2008年には、川崎しんゆり映画祭で「オーストラリア特集」を組んでいただき、シネリテラシーの提唱者であるジェーン・ミルス氏を日本にお招きしました。豪日交流基金の助成に支えられたレクチャーやシンポジウムを通じて、「アートと教育の融合」というオーストラリアの最前線の現場の声を直接日本の皆さんに届けることができました。
このときは、「豪日学生映画フォーラム」も同時開催し、『シネリテラシー 映画をつくる子どもたち〜オーストラリアの挑戦〜』を上映しました。ほかにも日本とオーストラリアの学生による短編映画8本を紹介し、若いクリエイター同士が交流する楽しい時間になりました。
2010年にも豪日交流基金の助成を受けて、トニ・グリン神父について書いた書籍『サムライの如く——トニ・グリン物語』の出版に合わせて、レクチャーや映画の上映を行いました。著者は弟のポール・グリン神父で、多くの日本人に読んでほしい内容になっています。書籍と映画、そしてお話の場を結びつけることで、トニ・グリン神父の生き方と『愛の鉄道』の物語を改めて伝えるいい機会になりました。

争いの多い今こそ『愛の鉄道』を多くの人に観てほしい
——オーストラリアを題材にした作品づくりを通して、観る人にどのようなメッセージを伝えたいですか?
戦争が人々に与えた傷は、簡単に許せるものではありません。それでも、「憎しみを愛に変えよう」と本気で動いた人たちが、この時代に確かにいた——そのことだけは、忘れないでほしいのです。戦争で得をするのはほんの一部で、傷つくのはいつも一般の人々です。だから私は、今こそ『愛の鉄道』を多くの人に見てほしいと思っています。
もう一つは教育の話です。「シネリテラシー」の普及活動を通して、一番伝えたいのは、人間に「誇り」を与えることの大切さです。今はアジアや中南米など、日本語を母語としない子どもたちが日本にもたくさんいます。教育によって、彼らに「誇り」を与えてほしいのです。オーストラリアの公教育は、この点で日本より一歩進んでいます。「シネリテラシー」という手法が示す可能性を日本の教育現場の方々にもっと知ってもらいたいです。
私たちの「シネリテラシー」の普及活動は今も継続されています。2015年からは、福島県広野町の中学校で、シネリテラシー教育を始めました。震災で全町避難となり、いち早く避難指示が解除された町です。生徒も住民も減ってしまったなかで、中学生がカメラとマイクを持って町の人にインタビューし、ドキュメンタリーをつくる。上映会では「私も映っているかしら?」とみんなが集まってきて、一度離れてしまった人と人とが、映画づくりを通してもう一度近づいていきました。現在は東京でも、ネパールやアフリカにルーツを持つ高校生たちと作品づくりを続けています。この活動には、娘のくららと息子の偉才也(いざや)が深く関わっています。






テレビディレクターとして活躍する娘のくららさん
2026年は、日豪友好協力基本条約締結50周年ということで、『愛の鉄道』を奈良で上映したいという話も出ています。『愛の鉄道』の上映会をするならば、家庭の小さな画面で観るのではなく、どこかに集まってみんなで観て、一緒に考える場にしたいですね。争いの多い今こそ、この宝物のような物語をただの思い出にせず、次の世代にしっかり手渡したいと思っています。
【プロフィール】
千葉(小嶌)好美
1945年静岡県生まれ。映画プロデューサー、作家。武蔵野女子大英米文学科卒業後に、近代映画協会でテレビ番組や映画作品のプロデューサーとして活躍。主な企画作品に、「世界のお母さん」や「マザーテレサとその世界」、「子供たち我らの希望」「ベルギーの愛の養子たち」(文部省特選)などがある。近代映画協会退職後は、映画監督で夫の千葉茂樹のドキュメンタリー作品のプロデュースに専念し、日本とオーストラリアを行き来しながら作品制作と学生交流に取り組む。2006年豪日交流基金賞受賞。
千葉茂樹
1933年福島県生まれ。映画監督、元日本映画大学特任教授、元日本映画学校校長。日本大学芸術学部卒業後、24歳で大映映画「一粒の麦」で脚本家デビュー。その後、脚本家、助監督として大映、日活、東宝などで映画制作に従事。近代映画協会に所属後、1974年にドキュメンタリー「愛の養子たち」で監督デビュー。1979年に、国内外で多くの賞を受賞することになる「マザーテレサとその世界」を公開、(以降、ヒューマニズムをテーマにした作品を手掛けてきた。オーストラリアでは、1991年に「—豪日に架ける—愛の鉄道」、1999年にシネリテラシー 映画をつくる子どもたち〜オーストラリアの挑戦〜』の二つの作品を制作した。2006年豪日交流基金賞受賞。
ライオネル・マースデン神父 (Father Lionel Marsden)
マリスト会司祭。1911年生まれ、1940年に叙階。従軍司祭として、当時イギリス領であったマラヤに展開するオーストラリア軍に派遣される。1942年、日本軍の捕虜となり、泰麺鉄道建設に従事するなかで、仲間の捕虜への奉仕を続けた。もし自分が戦争を生き延び、日本が敗戦したら、日本へ宣教師として赴き、自らの信仰を伝え、赦しと平和について語るよう努めると、仲間の捕虜たちに約束。1949年4月、元捕虜、戦争未亡人、友人、親戚などの見送りを受けて、日本に向けて出発。1971年5月、帰天。
トニ・グリン神父 (Father Tony Glynn)
マリスト会司祭。1926年生まれ。1951年叙階。学生時代の1946年にライオネル・マースデン神父に出会い、その活動に深く感銘を受ける。1952年に来日。奈良県で宣教活動を開始。1957年から59年にかけてオーストラリアに一時帰国した時には、信徒から贈られた日本の工芸品・美術品の展覧会をオーストラリア各地で開催し、日豪間の相互理解と融和の促進につとめた。また、終戦時にオーストラリア兵が持ち帰った日本軍の軍刀を元の持ち主の家族へ返還する活動にも取り組む。1963年に実現した大和高田市とニューサウスウェールズ州リズモアの姉妹都市提携、1993年に実現した奈良市と首都キャンベラの姉妹都市提携にも重要な役割を果たした。そのほか、教会、幼稚園、高齢者施設の設立など、地域に根差した幅広い活動を展開した。1994年帰天。弟のポール・グリン神父(1928 生まれ。1953年叙階。2026年1月帰天)も兄と同様に奈良県で長年にわたり活動。兄の活動を書籍にまとめている。
