2023-7-28
有満保江先生は、豪日交流基金大学院奨学生第一号としてオーストラリア国立大学に留学、帰国後も豪日交流基金からさまざまな形で助成を受け、研究を継続しています。またオーストラリア学会代表理事、オーストラリア・ニュージーランド文学会会長を務めるなど、日本のオーストラリア文学研究の第一人者として活躍、2002年に『オーストラリアのアイデンティティー文学にみるその模索と変容ー』を出版して豪日交流基金のサー・ニール・カリー賞の特別賞を受賞、また2007年にはオーストラリア短編小説集を出版して同賞の出版助成を受賞しました。最近では豪日交流基金が助成する「オーストラリア現代文学傑作選」を監修しています。その他、オーストラリア文学の研究書の出版や文化の紹介などに数多く携わっています。
Q:有満先生は豪日交流基金による大学院留学生第一号としてオーストラリア国立大学に留学なさいました。その経緯を教えてください。
A:日本女子大学の大学院を修了後、英文学科の研究助手になったのですが、そのときに豪日交流基金の大学院生の募集を知り、それに応募し留学の機会を得ました。
当時は20世紀の英米文学、特にモダニズム作家に興味をもっていて、ジェームズ・ジョイスやD.H.ロレンス、それからヴァージニア・ウルフなどの作品をよく読み、学会などに参加していました。
そんな折、キャサリン・マンスフィールドという作家の作品が入った短編集の翻訳を依頼されました。授業でも読んだことのある魅力的な作家でしたので、彼女の作品を翻訳するのはとてもよい機会だと思い挑戦しました。作品は『草原の店』(原題“The Woman at the Store”)という短編でしたが、ニュージーランドが舞台となっていて、植民地時代の様子を伝える内容なのです。この作家がニュージーランド出身であることがわかりとても興味をかきたてられました。そのときに「オーストラリア・ニュージーランド文学会」の存在を知り入会。そこで、当時ノーベル文学賞を取ったばかりのオーストラリアの作家、パトリック・ホワイトを知り、もうこの人のことが気になって。だから豪日交流基金の奨学生募集に飛びついて応募したわけです。当時、英米文学の作家たちは、作品のほとんどをイギリスやアメリカで出版し、たとえオーストラリアやニュージーランド出身であっても、英米文学のなかに組み込まれるというのが実状でした。
Q:奨学金を得られることになり、どのように留学先を選んだのでしょうか。
A:片っ端から大学に手紙を書き、いちばん最初に返事が来たところに決めようと思っていました(笑)
キャンベラのオーストラリア国立大学(ANU)からすぐに好意的なお返事をいただきました。キャンベラはシドニーやメルボルンのような都会ではありませんが、立派な図書館があり研究環境が抜群だと聞いていましたので、すぐに決めました。
Q:大学ではどのような学習をなさったのでしょう。
A:実はANUには、当時まだ「オーストラリア文学」のコースはなかったのですよ。オーストラリアでは英文学科(English Department) といえば英米文学が中心で、オーストラリア人作家のことを研究する学生は、大学にもよりますが、ANUにはそれほど多くはいませんでした。だから基本的には大学院にコースワークがなく論文オンリーで、すべて自分でやらなければならなかったのです。
オーストラリア人の学生には「なぜオーストラリア文学を?」と訝しがられましたね。当時のオーストラリアではオーストラリア文学の市民権がまだ確立されていなかった、ということです。もちろん、今ではオーストラリア研究、オーストラリア文学研究はとても盛んですが。
とにかく、私はオーストラリア文学のことがなにもわからないものですから、まずはオーストラリアの歴史と文学史などの学部の授業を聴講し、読むべき本を教えてもらいそれを読みながら論文を書くという感じでしたね。
Q:論文の題材は?
A:もちろん、パトリック・ホワイトの作品です。オーストラリア人として初のノーベル賞作家ですから、これはもうやる! とはじめから決めていたのです。ただこれは周りの学生には「難解だからやめたほうがいい」と言われるし、担当教官には「5冊の作品をやれ」と言われるし(日本では一冊を扱うのが通常なんですが……)。苦境に立たされましたが、豪日交流基金で留学させてもらっているのだから! と、真剣に論文に取り組みました。
Q:なぜ難解なのでしょう。
A:ホワイトはオーストラリア人の両親のもとに英国で生まれ、オーストラリアで育った人ですが、教育はほとんどイギリスで受け、オーストラリア人作家でありながら文学的にはイギリスの伝統を受け継ぐというジレンマを抱えていたんです。だから彼の中にはポストコロニアルの感覚が強くあって、その中で苦悩しながら作品を書いたという非常に特殊な作家でした。作品にしても舞台はオーストラリアなのに、ヨーロッパ的な価値観で描かれているわけです。登場人物の複雑な心理描写などを読み解くのが難しく、オーストラリア人学生でも何度となく挫折しているので、私がテーマに選んだときに止めようとしたのでしょう。とても時間がかかり苦労もしましたが、進めていくうちにいろいろわかるようになってきて、得るものはとても大きかったと思います。
Q:コースがない中での研究は大変だったのでは。
A:なにかしら成果を残さねば! と必死でしたが、アドヴァイスを下さる先生はたくさんいらっしゃるし、 特に英文学科では初の日本人留学生でしたので、とても良くしていただいたと思います。教授でもファーストネームで呼ぶのは当たり前、自宅に招いてくださって、ディナーをご馳走になることもたびたびありました。
大学に、A・D・ホープという名誉教授がいらしたのですが、ファーストネームで呼ぶまで返事をしてくれない、なんていう茶目っ気のある方で。でもね、この先生、世界的にも有名な詩人なんですよ。そんな先生とものすごく距離が近い。これもオーストラリアの大学らしい、フランクでフレンドリーな一面ですね。
かなり昔の話なので、なにがどう大変だったかはあまり覚えていませんが、そんないい思い出は鮮明に覚えています。
Q:ほかに、留学時代の研究に役立ったことは?
A:豪日交流基金のスタッフの方から、「学業だけではなく、オーストラリア国内を旅行してほしい。そうでなければオーストラリアのことはわからないから」と、旅行することを勧められました。実は、ほかの大学院生や留学生は、みんなとても節約していて、外食をするのにも食事代しか持っていかなくて帰る交通費が足りなくなる、という人がいるくらい。だから、私も旅行をしようなんて考えもしませんでした。勧められて旅行をしてみて、オーストラリアという国の実情に触れることができたと思います。研究室の中だけではわからないことですよね。
必要な経費はすべてまかなってもらえたので、比較的懐に余裕もでき、自費で車を買いました。おかげで、大学構内以外の場所を自由に移動することもできるようにもなり、行動範囲がぐっと広がり、より多くの体験ができるようになりました。とにかく奨学金のおかげで、私はなにも心配することなく研究を続けると同時に、オーストラリアという国のことを深く知ることができたのではないかと思っています。
Q:オーストラリア国内旅行で見聞を広げたことは研究に影響がありましたか。
A:そうですね、オーストラリア文学でもそうなのですが、「主流派」と「非主流派」というものがあって、「主流派」はイギリスから入植したアングロケルティック系、「非主流派」は数百にものぼる異なる言語や文化を持つ移民の人びと、そしてオーストラリアの先住民であるアボリジナルの人びともそこに含まれます。実際に街へ出たり、ほかの土地を旅してみたりして、このような社会の様子がとてもよくわかりました。
1973年に、オーストラリアは白豪主義を完全に放棄して多文化主義を宣言しています。私が留学していたのは1980年代で、ベトナム戦争が終わりベトナムからの移民を大量に受け入れ、オーストラリアには一気にアジア人が増えました。白豪主義から多文化主義へと移行していく激動の様子を、文学だけでなく実生活でも肌で感じることができたと思います。
Q:具体的にはどのような変化が見られましたか。
A:文学界でいいますと、当時のオーストラリアでは英文学といえば英米文学を意味していて、英文学科のオーストラリア人の学生はイギリス文学とかアメリカ文学を学ぶのがほとんどだったんですね。オーストラリア文学を専攻するのは、おもしろいことに、私のような外国人留学生ばかりでした。
それがいまや、オーストラリア人がこぞってオーストラリア文学を積極的に研究するようになっています。けれどそもそも「オーストラリア文学とはなんぞや?」という非常に難しい問題があり、そこにも「主流派」と「非主流派」という問題がつきまといます。
Q:「オーストラリア文学」をあえて定義するならば、主流派と非主流派と、一般的にはどちらがよりその定義に近いととらえられているのでしょうか。
A:どちらも等しくオーストラリア文学である、というのが多文化主義オーストラリアのスタンスです。「これがオージー」というステレオタイプな定義なんてない、ということですね。原則として何語で書かれていてもいいわけですから。
多民族国家となったオーストラリアでは、初対面の人に “Where are you from?” と出身国を聞くのが当たり前のようになっています。それぞれ全く違う文化的背景を持つ人びとがオーストラリア人なのです。とはいえ、実際にどの作品もまったく平等なのか、というとまたちょっと違いますし、オーストラリア国内でも、オーストラリア文学の定義が議論されています。
Q:「主流」があいまいになった状態で、定義そのものが難しいのですね。現代のトレンドはどのようなものでしょうか。
A:トレンドを語るのも難しいんですよ。たとえば、1987年に、アボリジナルの女性サリー・モーガンが英語で書いたMy Place (『マイ・プレイス−アボリジナルの愛と真実の物語』加藤めぐみ訳)という本がものすごいベストセラーになりました。ただし編集者が白人であったこと、英語で書かれていたことから「これは真のアボリジナルの文学ではない」という批判も同時に巻き起こったのです。オーストラリアが多文化主義に転じてからというもの、出版社はマイノリティの作品をより積極的に出版するようになりましたし、人びとの目に触れることが多くなればそれがトレンドになりますから、そこは平等といえるのかどうか、という問題があります。
Q:多文化主義ならではの問題ですね。
A:そうなんです。1995年にはびっくりするような事件も起きたんですよ。1994年に出版されたThe Hand that Signed the Paperという小説がありまして、これが非常に高く評価され、権威ある文学賞をいくつも受賞しました。内容はオーストラリアに住むウクライナ系移民の娘が、第二次世界大戦下の東ヨーロッパの様子を家族から聞いた体験談として回想するもの。そして、その作者は「ヘレン・デミデンコ」というウクライナ系の名前の女性で、かつ本人も受賞時のインタビューで自分はウクライナ系移民の子孫である、と明言したのです。でも、この女性は当時クイーンズランド大学に通うヘレン・ダーヴィルというアングロケルティック系の学生だったことがマスコミによって暴かれてしまいました。もともと審査員たちが掲げていた高評価のポイントが「移民系作家」であったことにあり、作品の評価自体への疑問が生じたわけです。作家本人は、当初その「嘘」も含めたうえでの「フィクション」だと語り謝罪もしていますが、この事件で「非主流」の作家のほうが有利であったという点が明らかになり、国内でさまざまな議論を巻き起こしたんですね。
<平等であるはずの多文化主義ですが、デミデンコ事件は移民(=マイノリティ)の文化保護という政策が多大に影響したものであり、文化的差異のない主流派の作品はなかなか注目されないのが現状でした。ヘレン・ダーヴィルはそれを鑑みて意図的に出自を詐称したわけではないと話しているといいますが、文学賞の評価基準に大きな疑問を生じた事件だったのです。主流派であったはずの英米系作家が非主流派だと身分を詐称することについて考察した有満先生の著書は、2002年に豪日交流基金のサー・ニール・カリー賞特別賞を受賞し、『オーストラリアのアイデンティティ −文学にみるその模索と変容−』として出版されています。>
Q:現代のオーストラリア文学界で賞を取っている作品はどのようなものでしょうか。
A:作品だけ見ても何人が書いたかわからないものが多いです。グローバリゼーションの時代なので、そこはほかの国でも同じようなことが起こっていると思いますが。
たとえば国内外で数々の賞を受賞したThe Boat <『ボート』(2008)(ナム・リー作、小川高義訳)>で知られるベトナム系オーストラリア人作家ナム・リーはアメリカ在住で出版もアメリカ。作品の舞台も必ずしもオーストラリアというわけではないんですよね。
Q:作家のプロフィールを見ない限りオーストラリア文学かどうかはわからないということですね。
A:そうそう。今は文学の転換期で、アイデンティティを求めなくなっています。たとえば、1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成はきわめて日本的であったことが評価理由でしたが、1994年の大江健三郎はとてもヨーロッパ的な表現をすることで審査員の共感を得たのだと言われています。ノーベル賞も作品の評価のポイントが変わってきていることがわかりますね。
というわけで、オーストラリア人作家にオージーらしいアイデンティティを求めるというのはナンセンスなんですよ。世界的にみても文学的評価は変わっているなと思います。
Q:世界的にも文化のグローバル化が進んでいますが、オーストラリアはその先陣です。オーストラリア文学の楽しみどころはどんなところでしょう。
A:この複雑さじゃないでしょうか。国家とか人種とかが国民のアイデンティティだとすると、オーストラリアは一言では言えないので、本当にむずかしいです。自分たちの文化的背景や考え方とは違う「差異」を楽しめるのが、いいところなのかもしれませんね。
Q:自らのアイデンティティを求めて葛藤したパトリック・ホワイト研究から始まり、アイデンティティなど不要な現代へ。実におもしろい軌跡だったのではないでしょうか。
A:私が豪日交流基金の奨学金を得て初めてオーストラリアへ渡った当初は、文学も生活も日本とまったく違うところがおもしろかった。海外に行きたい、というモチベーションで、いかにも「The 外国!」を体験しました。
留学を1年延長してもらって、1985年に帰国してからも毎年のようにオーストラリアに足を運びましたが、街も、文学界も、どんどん形を変えていく様子を目の当たりにしてきました。時代の変遷の節目節目を目撃するとその都度情熱が燃え上がります。留学のきっかけをいただき、研究を続けられたのも、豪日交流基金のおかげだなぁと感謝しかありません。
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